多胎一部救胎手術(減胎手術)
多胎一部救胎手術(減胎手術)とは、自然に、又は不妊治療の結果、多胎妊娠となった母親に、妊娠22週未満において胎児数を減らし、母子共に安全に妊娠経過させ出産に至らせる方法です。
一般的に、減胎手術、減数手術と呼ばれており、当院においても減胎手術と呼んできたが、一人でもこの世に安全に誕生するためにおこなう施術のため、「多胎一部救胎手術」と呼んでいる。
1980年代頃、不妊治療の中で排卵誘発剤、または体外受精における受精卵を数個子宮に戻すことにより全国的に多胎妊娠が多発した。多胎妊娠による母子双方におけるリスクは非常に高い。不妊治療を受けて、やっとの妊娠にも関わらず6胎、7胎妊娠で、全員中絶か全員産むかの二者択一しかなかったために、全員中絶をやむなくされていたケースも数多く報告されていた。
1986年に当院の根津院長が減胎手術を日本で初めて成功(同年に世界で初めてオランダでの実施例も報告される)。以来1300例以上の減胎手術をおこない、多くの命が誕生している。当院で減胎手術を受けた妊婦さんが出産に至るのは約98%であり、通常の妊婦さんの出産に至るケース(減胎手術を受けていない通常の妊娠においても全てが出産に至るわけではない)と比較しても有意差はなく、医療行為として確立したものであるといえる。
諏訪マタニティークリニックにおける減胎手術はほぼ他院からの患者さんであるが、多胎妊娠がわかった際に、担当の医療者から適切な情報提供がほとんどなされていない。当初、非常に強いバッシングが起こり、また日本母性保護産婦人科医会(現在の日本産婦人科医会)により実施の禁止が通達されたため、その後完全に多胎を防ぐことは不可能であり減胎手術の必要性が認められ方向転換がなされるものの、未だに「違法である」と誤認している医師も多く存在している。
根津院長が減胎手術を発表した当初、非常に強いバッシングを世間からも産婦人科界からも受けた。時代的に、排卵誘発剤が登場して間もなく、一部の医療者には多胎発生が問題となっていたものの多胎リスクも周知されておらず、世間的には5つ子ちゃんブームなどがあり、堕胎罪に当たる可能性がある、現代の間引き、などと非難された。
その後、2000年代になり産婦人科界や厚生労働省審議会などでも、施術の必要性を認める方向で報告書などが作成されたが、具体的には何も定められないまま、現在に至る。 30年以上経つ今も減胎手術に関する法的な位置付けはなされていない。
日本各地の様々な施設で実際には行われているといわれるが、実状は公表されていない。また、医療機関により施術方法も成功率もばらつきがあり、助けることのできる命が失われている可能性がある。法的にも医療的にも公なルール整備が強く望まれる。
取り組みと歩み
1982年、排卵誘発剤を用いたタイミング治療により、当院において初めて4胎妊娠を経験しました。当時、排卵誘発剤は、不妊治療における福音、画期的な薬剤といわれ全国的に使われ始めていた頃でした。排卵誘発剤を使用すると、排卵障害で妊娠することができなかった方が排卵でき、妊娠が可能となりました。しかし、その反面、排卵する卵子の数を制限することができないため、多胎妊娠が発生してしまうことにも繋がったのです。当時は現在のように超音波エコーで排卵前に育っている卵胞数の確認をすることもできませんでした。
全胎産むか、全胎人工妊娠中絶するか、それしか方法はありませんでした。4胎妊娠に戸惑い、人工妊娠中絶を考える患者さんご夫婦に、せっかく授かった命だからと私(根津院長)は妊娠継続をすすめました。その結果、妊娠後期には入院しての絶対安静の状態となり、大学病院と連携を取り万全を期すため出産をお任せし、4人が未熟児で誕生、その内の1人が脳性小児麻痺を伴うこととなりました。これは明らかに多胎による弊害でした。
また、妊娠中の母体は大きく膨らんだお腹から手足が突き出ているといった様子になり、全く身動きが取れない絶対安静の日々でした。多胎妊娠とさせてしまったこと、また妊娠継続をすすめたために、母子ともに大きな命のリスクを負わせてしまったことに、強い自責の念に駆られました。
(当時は、国民的アイドルの五つ子ちゃんブームなどもあり、多胎のかわいい部分ばかりがクローズアップされ、その弊害は社会の表にでていませんでした)
すべて、多胎が故に為せる業であることから、多胎をおこさないように細心の注意をはかるとともに、起こってしまった際にいかに安全に出産に至らせられるか、全胎中絶をしないでも安全にすむ方法はないかと考えるようになりました。
4年後の1986年に当院においてまた4胎妊娠が起こってしまいました(この時点でも、まだ卵胞確認のできるエコーは開発されていません)。その際、ご両親はとても全員産み育てることはできないと、悲痛な思いで全胎の中絶を覚悟されていたため、それまでに考案していた妊娠中における減胎のことを提案しました。2胎を減胎し2胎を残す手術を、万が一の際には全胎中絶をおこなうという形で、同意のもと施行、その後無事母児共に安全に妊娠経過し、そして元気に双子が誕生することが出来ました(同年に、オランダにおける減胎手術の報告がなされました。これが世界初とされています。世界に於いても、不妊治療による多胎をなんとかしようと模索しているような状況だったのだと思います)。
私がこの事実を報告するに先立ち、学会では6胎妊娠例の全胎児中絶例などが報告されていました。子供が欲しくてやっとの思いで妊娠したケースにおいて、多胎が故に全胎が人工妊娠中絶されてしまう。やっと宿った命をいくつも断つことは、医師としてはもちろん、親からしたらとても耐え難いことだと思いました。 それならば、医師として多胎妊娠に極力ならないように努めることは当然のこと、それでももし起こってしまった場合には、全胎人工妊娠中絶するよりも、一人でも二人でも安全に誕生することができる方が、まだベターではないかと思い、患者さんの同意のもと施行し発表しました。
しかし、実名での学会発表であったにもかかわらず、無事に出産が済んだ後、新聞にて匿名の「医師A」として、否定的な報道がなされてしまいました。
本来、一番多胎の問題を認識しているはずの産婦人科医の集団である、日本母性保護産婦人科医会(現在の日本産婦人科医会)が、「堕胎罪にあたるおそれがある」と減胎手術の施術を禁止する通達を出し、減胎手術は完全否定されてしまいました。
あまりに強いバッシングの嵐に、一時は全てやめるべきかと考えたこともありましたが、全国から悲痛な思いで助けを求めて来院される患者さんを前に、やはり、一人でも二人でも多くの命を救いたいと奮いたち、施術を続けました。
「6胎を全胎中絶することは全く問題ないと許され、4胎の内2胎の命を助けることは許されないという道理はあり得ない」と、当事者を全く無視した考え方の産婦人科界のリーダー達に対し、人工妊娠中絶に抱いていた矛盾が重なり、更に不信感を強く抱くこととなりました。
当事者不在の医療のあり方は、その後時代の流れとともに起こった他の生殖医療の問題においても同様であり、その後の私の問題提起へと続くこととなりました。
多胎妊娠は、排卵誘発剤を用いた一般不妊治療だけでなく、その後の体外受精の広がりのなかで、非常に多く発生するようになりました。体外受精の誕生した初期の頃は、受精卵の凍結保存の技術はなく、せっかくできた受精卵を廃棄してしまうのはもったいないと、妊娠率を上げるためにも多数の受精卵を子宮に戻すことが世界的に行われていました。体外受精の技術も妊娠率も現在ほど高いものではありませんでした。
そのため、各地で非常に多くの多胎妊娠が発生し、問題とされるようになりました(水面下での減胎手術が非常に多く行われてようです)。当院では、減胎手術が公に認められるように問題提起をし続けてきました。しかし、多くの受精卵を戻し、妊娠後減胎すればいいというような考えには真っ向から反対の立場を取っていました。
その後、日本産科婦人科学会は会告によって子宮に戻す受精卵の数を制限(1996年原則3個、2008年原則1個に)するようになり、体外受精による多胎妊娠は激減しました。
(現在は、子宮に戻さない受精卵も非常に高い技術で凍結保存することができるようになり、日本における体外受精の実施数(胚移植の数)は、新鮮胚移植より、凍結胚移植の方が多くなっています)
一般不妊治療の排卵誘発剤による多胎の問題は、現在は排卵する前に育っている卵胞の数を超音波エコーで確認することができるので、あまりに卵胞が多く見られる場合にはその周期での妊娠を試みないことによって多胎妊娠は防げるようにはなりました。しかし、それはその周期では妊娠の可能性は0になってしまうことでもあります。また受精する卵の数を調整できないため、多胎妊娠の問題は残り続けています。
2000年代に入り、ようやく全面否定の流れにも変化が見え始めました。
日本産婦人科医会、日本受精着床学会、厚生労働省審議委員会などでも、施術の必要性を認める方向で報告書などが作成されるようになりました。しかし、具体的には何も定められないまま、 30年以上経つ今も減胎手術に関する法的な位置付けはなされておらず、医療ガイドラインもありません。 日本各地の様々な施設で実際には行われているといるものの、公表されていないため、実態把握はでいていない状況です。また、医療機関により施術方法も成功率もばらつきがあり、成功率は五分五分というようなところもあるようです。そのため、助けることのできる命が失われている可能性があります。
2015年には、大阪で排卵誘発剤による一般不妊治療を受け5胎妊娠となり、その施設での非常に稚拙な手技による減胎手術を受け30回をも腹部を穿刺され、5胎全ての命が失われるようなケースが起こってしまいました。
これは、一医者だけの問題ではなく、公的なガイドラインもないことにより起こってしまったと言えます。
問題提起当初より訴え続けてきていることですが、減胎手術を安易に希望する患者さんはいません。苦しみながらも、なんとか一人でも二人でも我が子の命が守られ、無事に誕生して欲しいと願い、手術に臨みます。だからこそ、極力安全な方法で、安心して施術を受けられるようにすることが必須なのです。そのために、法的にも医療的にも、当事者のための公なルールが整備されることを強く望みます。
全国から当施設を訪れ減胎手術を受けられたご夫婦は1,397組(2020年12月17日現在)となり、多くの命が誕生しています。
問題提起の変遷
| 1982 | (S.57) | ー | 当院で四胎妊娠継続、出産後1児がCP(脳性小児麻痺)を伴ったことにより、多胎妊娠・未熟児出産における母体/胎児への負荷を強く認識するようになる。 |
| 1986 | (S.61) | ー | 再度当院で四胎妊娠生じる。 |
| 1986 | 2.4 | ー | 減胎手術実施。 |
| 6.15 | ー | 第71回日本産科婦人科学会関東連合地方部会で「四胎妊娠を経膣的に二児に減じ妊娠を継続させている一症例」と題し発表。 | |
| 8月 | ー | 経膣分娩で二児の男の子出産。 | |
| 8.10 | ー | 読売新聞紙面上で減胎手術について発表される。実名ではなく「医師A」と匿名扱いにされてしまう。内容は批判的なトーンであったが、患者さんへの配慮はなされていた。日本母性保護産婦人科医会(故 森山豊会長)より「日母医報」という小冊子上で減胎手術を否定する通報が一方的になされる。 | |
| 1987 | (S.62) | ー | 減胎手術二例目報道後、日母より苦言が風の便りで届く。特別養子縁組の特別法を成立するきっかけとなった「菊田昇」医師と同じように根津も優生保護法指定医の資格を剥奪されるのではないか、とも噂されるようになる |
| 1993 | 2.8 | ー | 毎日新聞に減胎手術継続の記事が出る。日母が「日母医報」を通じて再度通達をだす。優生保護法違反で堕胎罪(1907/M.40)のおそれのある違法行為と批判。圧力により刑事が形式上の事情聴取に来るが法を犯してはいないため罪には問われず。 |
| 1998 | ー | 「減胎手術の実際」(近代文芸社刊) | |
| 1998 | 8.29 | ー | (卵子提供を行ったことに関し評議会の決定により日本産科婦人科学会より除名処分を受ける(会告破りの罪)除名処分不服の訴えを起こす。5年間の法廷論争の末和解成立。2004.2.21の理事会により日本産科婦人科学会に復帰成立)。 |
| 2000 | 3.26 | ー | 日母が今まで大反対し続けてきた新家薫氏を中心に、何の予告もなしに方向転換、母体保護法改正の提言の中で減胎手術を認める案をだす。 |
| 2003.5 | ー | 厚生科学審議会生殖補助医療部会が、報告書の中で減胎手術について「予防措置を講じたにもかかわらず4胎以上、やむを得ない場合は3胎以上となった場合には実施を認め得る」とする | |
| 2004.11 | ー | 受精着床学会が減胎手術に関する見解を示す。(母体保護法を下に合法化する等) | |
| 2007.11 | ー | 日本医師会が母体保護法等に関する検討委員会の答申において、減胎手術の必要性を認め、具体的な検討の必要性を述べる |

